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福岡地方裁判所小倉支部 昭和48年(ワ)612号 判決 1979年8月31日

原告

伊藤龍文

外六名

被告

九州電力株式会社

右代表者

赤羽善治

外四名

右訴訟代理人

澤田喜道

外三各

主文

一  原告らの訴を却下する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一、当事者の求めた裁判

一、原告ら

(請求の趣旨)

1 被告は、福岡県豊前市八屋明神地区に建設して操業中の豊前火力発電所の操業をしてはならない。

2 被告は、福岡県豊前市大字八屋字北汐入二四四六番地から同市大字八屋宇鳥の洲二五四四の六七番地に至る地先の別紙記載の埋立区域について昭和四九年六月二五日時点のなんら埋立てしていない水面の状態を回復せよ。

3 訴訟費用は被告の負担とする。

4 仮執行宣言。

二、被告

(本案前の答弁)

1 原告らの訴を却下する。

2 訴訟費用は原告らの負担とする。

(本案に対する答弁)

1 原告らの請求をいずれも棄却する。

2 訴訟費用は原告らの負担とする。

第二、当事者の主張

一、請求原因

1  当事者

原告らは肩書地に居住する市民であり、被告は一般電気事業を営む会社である。

2  被告の行為

(一) 豊前火力発電所の建設計画

被告は、昭和四六年秋豊前市八屋明神地区の一部海域を埋立てて、重油専焼火力発電所(以下、豊前火力発電所という。)を建設する計画を発表した。その火力発電所の規模は次のとおりである。

(1) 出力  一〇〇万キロワツト(五〇万キロワツト二基)

(2) 使用燃料  重油(但し、イオウ含有率は未発表。

排脱装置の効果などを勘案して一〇〇万キロワツト時での一時間当たりのSO2排出量一一六一Nm3)

(3) 使用量  年間一四〇万キロリツトル(一〇〇万キロワツト時)

(4) 煙突  高さ二〇〇メートル集合型

(5) 排出イオウ酸化物  年間二〇、三四〇トン(一〇〇万キロワツト時)

(6) 排出窒素酸化物  毎時約一、五〇〇キログラム(一〇〇万キロワツト時)

(7) 温排水  毎秒四〇トン(一〇〇万キロワツト時)

(8) 取水と排水の温度差  七度C

(9) 排煙脱硫装置  二五万キロワツト処理能力の装置を二基(一〇〇万キロワツト時)、方式は湿式

(10) 埋立面積 三九万平方メートル

(二) 豊前海域の埋立工事及び埋立

被告は、豊前火力発電所建設用地として、福岡県豊前市大字八屋字北汐入二四四六番地から同市大字八屋字鳥の洲二五四四の六七番地に至る地先の公有水面約三九万平方メートルの埋立を福岡県知事に申請し、昭和四九年六月二五日同知事の埋立免許を得て、同月二六日埋立工事に着工し、昭和五〇年一〇月三日現在すでに第一工区の埋立を完了し、第二工区も完成に近づき、全体の三分の二の埋立を終えている。

(三) 豊前火力発電所の操業

そして、被告は、出力五〇万キロワツトの火力発電所一号機の建設を完成し、現在操業中である。

3  現実化した公害もしくは予測される公害

被告の前記2の行為により次のような各種の公害の発生が現実化しており、もしくは予測される。

(一) 埋立工事中の被害

本件埋立は、航路などのしゆんせつによる採取土砂をパイプで埋立地に送る方法によるのであるが、このしゆんせつ土砂をパイプに吸いこむポンプ能力は、約七〇パーセントとされており、したがつて残りの三〇パーセント相当の土砂は、浮遊土砂となつて海水の汚濁を拡げることになる。そして、本件埋立区域の容積は二五六万八、〇〇〇立方メートルであるから、その三〇パーセントを重量換算すると、実に一九二万トンの浮遊土砂が豊前海一帯を汚濁すると予測される。

さらに、埋立区域内に送りこまれた土砂は、そのうち大部分は沈澱するのであるが、なお余水に混つて流出する土砂があり、その量は五パーセントあるとみこまれる。これを計算すると二二万四七〇〇トンである。そうすると、先の浮遊物土砂と合計して、実に二〇〇万トンを超える浮遊土砂が豊前海を一〇キロメートルの広範囲にわたつて汚濁すると予測される。

このような汚濁は、海中における日光をさえぎり、藻類の光合成を阻害することになり、魚類の産卵場であり稚魚の生育所である藻場を衰滅させたり、また浮遊土砂の沈降が海底の生態系を変え、貝類を死滅させるなどの被害を生ぜしめる。さらに、海底に沈澱していた有害物質(栄養塩類、重金属、PCB)などが浮上し再溶出するおそれが濃い。それらが起因となつて、赤潮の発生も予測される。

(二) 埋立そのものによる被害

(1) 海水浴場の喪失

本件埋立海域は、明神海水浴場として、豊前市民のみならず、遠く北九州、田川、筑豊などの福岡県民、中津など大分県民の多くに親しまれてきた場所である。これが完全に失われる。豊前市には他に海水浴場はない。

(2) 潮干狩の場の喪失

本件埋立海域は、貝掘りの名所としても、多くの市民に親しまれてきた。家族連れで楽しめる健全なレクリエーシヨンとしての潮干狩の揚が完全に失われることになる。

(3) 水鳥の採餌場の喪失

本件埋立地には、白鷺をはじめ多くの水鳥が採餌場として現われる。今や野鳥の生息は、貴重な自然の財産ともいうべきであり、採餌場を奪われる野鳥は、ここから移動してしまうことになる。

(4) 散歩の場が奪われる

本件埋立の海岸は、神社の境内につながる市民散策の場として、非常に快適な場所である。多くの市民が夏の涼を求め、あるいは釣場を求め、あるいは海を眺めにやつて来た。そのような楽しみが奪われてしまう。

(5) 瀬戸内海環境保全審議会の資料によれば、周防灘南部海域は、瀬戸内海二三ブロツク中その汚染度は随一となつている。工場地帯もないのにこのような数値となつているのは、対岸である山口県側周南コンビナートの汚染が回流してきて、この海域に沈むからだとされている。事実潮の滞留度も二三ブロツク中第六位である。このように潮の淀みやすい、しかも瀬戸内海一の汚染のたまり場を埋立てることによつて、一層潮流を阻害し、汚染を助長することになるであろう。

(三) 火力発電所の操業による公害

(1) 大気汚染

年間二万トン余のイオウ酸化物が排出される。また、光化学スモツグの原因たる窒素酸化物も毎時一五〇〇キログラム排出される。これにばいじん等が加わつて複合による大気汚染が発生する。この大気汚染により次のような被害が予測される。

(イ) 健康被害

亜硫酸ガスによる呼吸器系疾患の発生は、すでに周知のことである。しかも、それに火力発電所が大きく寄与していることも事実である。例えば、昭和四七年六月一七日富山市草島で当時一〇才の少女が気管支喘息で急死したが、これは富山火力発電所に原因のあつたことが実証されている。規模からみて、ほぼ等しい豊前火力発電所にも同じような健康被害が予想される。

また、豊前火力発電所が排出する窒素酸化物は、毎時一五〇〇キログラムであり、これを自動車の排気ガスに含まれるNO2と比較すると、実に一万一〇〇〇台分に相当する。現在さして自動車も多くない豊前市一帯で光化学スモツグが発生し、健康被害の起こることは十分予測されるところである。

(ロ) 農業被害

豊前平野一帯は、米作、果樹園芸の盛んなところであり、それらの収量低減、品質低下が心配される。現に、苅田発電所周辺において、土壌酸性化に起因すると考えられる大根の芯ぐされが頻発しているし、みかん被害も発生している。

(ハ) 漁業被害

豊前海はノリの生産地であるが、冬季に霧の発生が多く、このため硫酸ミストがノリに付着して、生育を妨げることが考えられる。

(ニ) チクシシヤクナゲ及び樹木被害

豊前火力発電所から南方向一六キロメートルに位置する犬ケ岳には、特別天然記念物チクシシヤクナゲをはじめ、天然記念物のヒメシヤガ、さらにブナの原生林など学術上貴重な植物が百数十種も群生している。犬ケ岳一帯の四季は、豊前市民の心のふるさとになつている。豊前火力発電所の高煙突からの排煙は、海からの風に乗つてこれらを直撃し、その生長を阻害すると考えられる。さらに、八屋宝福寺山の名物ツツジヘの害も心配である。その他杉などの枯死による緑の喪失が特に憂慮される。

(ホ) その他

洗濯物の汚れ、トタン屋根、金属製品の腐蝕、その他建物耐用年限の縮減などの各種財産被害及びスモツグ発生による青空の喪失などの環境悪化が予想される。

(2) 温排水被害

(イ) 豊前海のノリの種つけは一〇月である。ノリの種つけは、水温が二二度Cを超えると悪化する。豊前海の一〇月の水温は二〇度Cであるから、これより七度Cも高温の排水が一日に三五〇万トンもそそがれるとすると、ノリの種つけはうまくいかなくなるであろう。

(ロ) 周防灘は水深浅く、しかも対岸の山口県側まで直線距離二〇キロメートルしかなく、対岸周南コンビナートの汚染が回流しており、そこに多量の温排水が流入すると、これが引金になつて、赤潮の発生が心配される。

(ハ) 冷却用に取水された海水がタービンの復水器を通るとき塩素ガスが注入されるので、海水中のプラクトン類が死に、海の生態系が混乱する。

(3) 油汚染

年間一四〇万キロリツトルの重油が小型タンカーで運ばれてくる。その0.1パーセントが油もれして海面が汚染すると予測される。年間一四〇〇トンの油が狭い豊前海を汚染し、油臭魚を発生させるであろう。

(四) 公害防止対策の不備

ところで、被告は、豊前火力発電所の建設計画発表後、関係市、町及び関係漁業協同組合と折衝を続けた結果、昭和四八年七月までに、豊前市、中津市、宇佐市と環境保全協定を締結し、その他の関係市、町の納得もとりつけ、一方関係漁協との交渉も昭和四八年八月一七日の椎田町漁協を最後にすべて妥結したのであるが、右環境保全協定によつて公害が防止できるとは考えられない。すなわち、

(イ) 被告が設置するという二五万キロワツト処理能力の排煙脱硫装置は未開発であり、その完成を疑問視する学者も多い。

(ロ) 右協定によればイオウ酸化物の最大着地濃度は0.009PPMというが、これは単なる理論計算式にすぎない。さらにそれを実証したという風洞実験も今では多くの学者から疑問視されている。要するに、0.009PPMを信用すべき根拠は乏しい。むしろ、年間二万トン余の排出絶対量こそ問題であろう。

(ハ) 窒素酸化物の新規制基準一八〇PPMをどのようにして達成できるのか示されていない。

(ニ) 温排水は、深層取水方式でできるだけ温度差を小さくするとあるが、豊前海では水深一〇メートルにおいても表面と海底との温度差はほとんどない。

(ホ) 騒音に関しては何フオンを厳守するのか、協定中に全然示されていない。

(五) 被告の住民無視

被告は、これほど重大な計画にもかかわらず、その詳細な資料を全然公開していないし、豊前市において一度の公開討論会にも応じていない。また、例えば逆転層の調査をわずか年間四日半ですませるなど、ずさんな事前調査は住民無視のあらわれである。このように地元住民を無視する被告にわれわれの安全を預けるわけにはいかない。

(六) 本件埋立免許の無効

福岡県知事のなした前記埋立免許には次に述べるとおり重大かつ明白な瑕疵があり、よつて右免許は無効であり、無効な免許に基づいて進められた埋立工事は違法な行為である。

すなわち、いうまでもなく公有水面の埋立免許は公有水面埋立法によるのであるが、被告提出の資料によつては同法四条二号の要件を充足していると判断するにあまりにも不十分であるうえ、被告のなす埋立は不当にも将来の倍増計画に備えた過剰な埋立であり、これはできるだけ瀬戸内海の埋立を許さぬという国家的方針からしても違背しており、加えて手続上も本件埋立免許にあたつては運輸大臣の認可を得、かつ環境庁長官の意見を求めなければならないのに、福岡県知事はこれらの手続も経ていないことなどの点からすると、本件埋立免許は重大かつ明白な瑕疵があるというべきである。

4  環境権の侵害

原告らは、健康で快適な生活を維持するに足る良好な環境を享受し、支配する権利、すなわち環境権を有する。それは、憲法一三条の幸福追求権、憲法二五条の生存権に基礎を置く。そして、瀬戸内海の一隅たる豊前海は、瀬戸内海環境保全臨時措置法によつてもその環境権が承認されている。

ところで、原告らは漁業者ではない。しかし、海が漁業者だけのものであるはずはない。海の汚染による漁業被害は、たとえば新鮮な魚を食べられなくなるなどの形で直ちにわれわれの生活環境の悪化と結びつく。

また、原告らは農業者でもない。原告らがあえて農業被害に言及するのはその被害が直ちにわれわれの生活環境に悪影響を与えるからである。さらに、現在、豊前平野は、北九州工業地帯のベツドタウンと化しつつある。すでに汚染地域となつている北九州からよりよい環境を求めてくる人々は今後ますますふえるものと考えられる。その人々のためにも原告らは現在の環境を大切に守り抜く必要がある。

原告らは、原告らそれぞれの私的権利、私的利益を追求して本訴を提起し、追行しているのではない。

原告らは、地域(豊前平野・豊前海)の環境保持を目的としてそれを侵害するものを排除せんとしているのであり、地域の代表として立つて本訴を提起し、追行しているものである。

以上述べたとおり、被告の前記行為は、原告らの環境権を侵害するものである。

5  結論

よつて、原告らは被告に対し、環境権に基づき請求の趣旨記載のとおりの操業差止及び原状回復を求める。

二、被告の本案前の主張

原告らの主張する環境権なるものは憲法一三条、二五条を根拠とするものである。しかしながら、憲法一三条の「個人の尊重、幸福追求」、同法二五条の「国民の生存権」の規定は、個人を尊重し且つ国民すべて健康で文化的な最低限度の生活を営み得るよう国政を運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に対して具体的権利を賦与したものではない(昭和二三年(れ)第二〇五号同年九月二九日最高裁大法廷判決、刑集二巻一〇号一二三五頁、昭和四二年五月二四日最高裁大法廷判決、民集二一巻五号一〇四三頁)。

したがつて、本件訴は、具体的権利を根拠とせず、訴訟要件を欠くものであるから、不適法として却下されるべきである。<以下、事実省略>

理由

一本案前の主張について

1  原告らは、豊前海域の埋立、豊前火力発電所の操業等により、原告らの居住地域(豊前平野、豊前海域)一般の環境が破壊され、又は破壊されるおそれがあるとして、被告に対し環境権に基づき請求の趣旨記載のとおりの操業差止め及び埋立地の原状回復を求める(以下本件差止め等請求という。)ものであり、これに対し被告は原告らの主張する環境権は、実定法上の具体的権利とはいえないから本件訴は不適法として却下されるべきであると主張する。

おもうに、民事訴訟は、客観的な法規を前提として当事者間の法律上の私的紛争を具体的、個別的に解決する制度であるから、審判の対象となる請求は、現行の実定法上是認しうる特定の具体的な権利又は法律関係の存否の主張でなければならない。これを給付訴訟についていえば、審判の対象となる請求は、実定法上認められた一定の給付請求権の存在の主張であることを要する。したがつて現行の実定法上認められない給付請求権を主張する請求は、審判の対象たる資格を欠き、不適法なものといわなければならない。

2  これを本件についてみるに、原告らは、本件差止め等請求の法的根拠として環境権に基づく旨主張するので、そのいうところの環境権が現行の実定法上是認しうる私法上の具体的権利であるかどうかにつき以下検討する。

近時、人間の生活を取り巻く環境、特に大気とか水、日照、静穏、通風、眺望(景観)などの自然的環境の素材、社会的施設や文化的遺産などの社会的・文化的環境素材は、人間生活に不可欠な要素であつて、すべて人びとは、健康な生活を維持し、快適な生活を営むに足る良好な環境を享受し、かつこれを支配しうる権利、すなわち環境権を有するものであり、それはすべての人びとの共通の財産として、地域住民が平等に共有している、との見解が一部の識者によつて提唱されていることは周知のとおりである。

右の環境権論者は、「環境権は、具体的な私法上の権利であり、支配権としての性格を有するから、環境を破壊又は破壊するおそれのある一切の行為に対し、利益衡量を排除して、環境権に基づいて直ちに当該行為の差止め等を請求しうる。この場合汚染物質や騒音等を排出して環境を汚染することが環境権の侵害となり、人の健康等の具体的実害の発生は必要でない。」と説き、その実定法上の根拠として憲法一三条の個人の尊重に関する規定及び同法二五条の生存権に関する規定を掲げる。

原告らも、本訴において右の環境権論者の所説に立脚しこれとほぼ同様の主張をするもののごとくであるが、原告らはほかに環境権の実定法上の根拠として、瀬戸内海環境保全臨時措置法をも挙げている。

しかしながら、原告らが環境権の実定法上の根拠として挙げる憲法一三条は、憲法第三章の総則的規定として憲法の根本原理たる基本的人権の保障を宣言・確認したもので、同条の趣旨は国の責務として立法その他国政の上で最大に尊重されなければならないが、この規定そのものは具体的内容をもたないものであり、憲法二五条についても、同条一項は、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営みうるように国政を運営すべきことを国の責務として宣言したにとどまるのであつて、これらの各規定は、いずれも個々の国民に対して直接に具体的権利を賦与したものではなく、したがつて、これらの規定をもつて環境権なる権利を承認する実定法上の根拠とすることはできない。また原告らは、瀬戸内海環境保全臨時措置法が、瀬戸内海沿岸住民に環境権を認めていると主張するが、同法の各規定は、政府に対し瀬戸内海の環境の保全に努めるべき責務を宣言したにとどまり、右主張の住民に環境権を保障したものでないことは、右各規定の文言からも明らかである。そしてほかに環境権なるものを私法上の具体的権利として認めるべき実定法上の根拠は存しない。

しかも、とりわけ差止め請求訴訟は、一方当事者の請求に応じて他方当事者に作為、不作為を命じ、その私権を例外的に制約することを求めるものであるから、これを求める法的根拠となる権利については、その権利性が明確でかつ強固であることを必要とするのであるが、環境権なるものゝ各個人の権利の対象となる環境の範囲、すなわち環境を構成する内容の範囲及びその地域的範囲は、漠然としている上、その侵害の概念も明確でなく、さらには権利者の範囲も限定しがたく、その権利概念自体まことに不明確なものであつて、環境権なるものゝ法的権利性を承認することはできない。

これを本件に即していえば、被告が豊前火力発電所を建設し、これを操業することにより、いかなる範囲の大気が汚染されるというのか、豊前平野・豊前海域一帯の上空というが、その境界はどこであるか、またどの程度の汚染があれば環境権が侵害されたことになるのか、さらにまた権利者は、豊前平野・豊前海域の住民というのであろうが、田川市の住民は入るのか(現に原告伊藤龍文は田川市に居住する。)、はたまた北九州市から豊前市に通勤する人はどうか等々の多くの問題が存在するのであつて、その権利概念の不明確さは明白であろう。

3  近時わが国の経済成長にともなつて公害による環境破壊が進んできているから、良好な環境を破壊から守り維持して行く必要性は高いものがあり、国や地方公共団体が立法、行政の両面において、環境保全のため公害防止の施策をなすべき重大な責務を有し、企業も公害の防止に努めるべき社会的責任を負うことは当然である。そこで、立法政策的な提言あるいは思想としての環境権論には環境保護の理念にそうものとして傾聴に値するものがある。

しかし、そうであるからといつて直ちに、公害の私法的救済の手段としての環境権なるものが認められるとするのは早計といわなければならない。

4  もとより、およそ何人に対しても健康で快適な生活を営む利益が保障されなければならないことであり、何人も環境の破壊によつて自己の財産もしくは生命、身体、健康、自由などの利益が直接に侵害され、又はそのおそれが生じた場合には、所有権もしくは人格権などの具体的権利を根拠に侵害行為の差止めを請求して、民事訴訟による私法的救済を求めうることはいうまでもないところ、本件請求は、原告らも自認するとおり、原告ら各人の私的権利、私的利益を超えて、もつぱら豊前平野及び豊前海域の地域環境一般の保全を目的としてなされていることは明らかであるから、原告らは、原告ら各人の所有権ないし人格権などの具体的権利の侵害を理由として本訴請求をなしているものと解する余地はない。

5  以上の次第であつて、環境権なるものを法的根拠としてなす本件差止め等の請求は、環境権が現行の実定法上具体的権利として是認しえないものである以上、審判の対象としての資格を欠く不適法なものといわねばならない。

二結論

よつて、原告らの本件訴は、その余の点につき判断するまでもなく、不適法であるからこれを却下することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(森林稔 豊田圭一 池田克俊)

別紙<省略>

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